青年総代の生い立ち

赤羽八幡神社 青年総代睦会の歴史は、「こわか組」と称していた戦前の時代を含めると、すでに60年以上にもなります。 他の神社組織には見られないこの団体が、そもそもどのような経緯で誕生したのか、今ではその草創期について語りうる人は少なくなっています。 会が熟成すればするほど歴史をとどめておく事は大切なこと。ということで広報部では、大先輩であります沼野豊次氏にそれらの想い出について一文を寄せていただくことにいたしました。

沼野豊次 氏

 平成14年9月某日、青年総代の広報部から青年総代(の始まり)について知っていることを、何か書いてくれないか とのご依頼があった。だが、記憶力の乏しい私には些か難問である。入会後にもいつ頃から始まったのか一言も聞か されていないので、先輩たちの年齢から推測すると昭和初期時代に、祭り好き神輿好きが相より集まり『こわか組』 と名乗ったのが始まりではないかと思われる。 宮司さんの言によると、戦争が激しくなった昭和15年が最後の大祭となり、戦後のドサクサからいくらか落ち着きを取り戻した昭和23年に復活したとある。 待ちに待った大祭、神輿の渡御が再開され『こわか組』も昔の活力を取り戻し、活動を開始したのである。 幼児期の餓鬼大将であった"増っさん"(石渡増次氏)から、「お前も入れよ」の一言で否応もなく入会させられたのが『こわか組』戦後一号であった。その時のメンバーを思い出すままに・・・・・木村信夫、仲西栄一、石渡増次、山本茂、和地明、岩井正雄の各氏だった。(その他不明) 戦後、初代委員長に続き二代目石渡増次氏の時代に、青年総代名簿が作成され(昭和40年頃)組織も磐石となり、神社を中心として発展を重ね、現在第11代委員長 清水潤一氏の時代を迎えている。 戦後の大祭復活から五十数年、誕生の歴史を語るべき人も、幽明境を異にし尋ねることも不可能にして推測を混えながらの記録になりました。 昭和初期当時の大らかな仕来りなどから、何時、誰が、どうしたなどと、しかつめらしきことは抜きにするのもイリュージョン的で今さら深追いすることではない(?)。